歌とメッセージと私
あの頃のフォークソングには、確かなメッセージがあった。
私たちの望むものは
岡林信康 作詞/作曲
私達の望むものは生きる苦しみではなく
私達の望むものは生きる喜びなのだ
私達の望むものは社会のための私ではなく
私達の望むものは私達のための社会なのだ
私達の望むものは与えられるではなく
私達の望むものは奪い取ることなのだ
私達の望むものはあなたを殺すことではなく
私達の望むものはあなたと生きることなのだ
今ある不幸にとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ
私達の望むものはくりかえすことではなく
私達の望むものはたえず変わってゆくことなのだ
私達の望むものは決して私達ではなく
私達の望むものは私でありつづけることなのだ
今ある不幸にとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ
私達の望むものは生きる喜びではなく
私達の望むものは生きる苦しみなのだ
私達の望むものはあなたと生きることではなく
私達の望むものはあなたを殺すことなのだ
今ある不幸にとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ
私達の望むものは
私達の望むものは.....
http://www.youtube.com/watch?v=kjAI9V1G6bA&feature=player_detailpage#t=0
シャーリーバッシーは、もう77歳。
永遠の007シンガーと言えば、シャーリーバッシー。
あのゴールドフィンガーの主題歌を聴いたときの衝撃は忘れられない。
007シリーズを最初に観たのは、田舎の映画館。
田舎といっても、当時は、映画館が4つもあった。
4つのうち、1つだけが、外国映画専門だった。
定期的に映画を観はじめたのは、高校2年生の時。
毎週、土曜日の午後は、映画館に通っていた。
そこで、007に出会った。
「何が観たいから、どの映画館に行く」という選択肢はなかった。
「ただ、放映しているのを観る」というだけだった。
だから、偶然の007なのだ。
そして、007を追いかけていったその先に、シャーリーバッシーがいた。
映画ってすごいと思った。
田舎にいても、どこにいても、映画館に行けば、憧れや夢や未だ見ぬ世界があった。
そういう時のシャーリーバッシーなのだ。
「ゴールド・フィンガー Gold Finger~ 007~」シャーリー・バッシー
007シリーズは、話そのものも面白いが、素晴らしい曲をたくさん生み出してきた。
永遠の007シンガーと言えば、シャーリーバッシーだが、
ゴールドフィンガーに匹敵するのは、
もちろん、「ダイアモンドは永遠に」だろう。
007じゃないけど、この歌もどうぞ。
Shirley Bassey's Yesterday When I Was Young
【シャーリーバッシー:1937年1月8日 (77歳)】
ララのテーマ、革命、巨大なスケール、そして、愛
ドクトルジバゴを観たのは、1965年。
まだ、映画館がごった返していた頃。
憧れの東京で。
当時、大学生だった実兄が連れて行ってくれたのだ。
シチュエーションがすごい。
①観た者(私)は、田舎の高校生。
②映画館の場所は、大東京。
③映画の背景は、革命下のロシア。(1965年の日本は、大学闘争のピーク)
④場所は広大なロシア。長い列車、列車の窓から見える凍てつく大地。巨大なスケール。
⑤テーマは、愛。
(『ドクトル・ジバゴ』(Doctor Zhivago)は、アメリカとイタリアによる合作映画)
何もかも新鮮だった。
このララのテーマは、私にとっての「勇気」。
まだ、夢を持てた日本。
まだ、ロシア文学が学生の話題にのぼる頃。
長髪、ジーパン、朝日ジャーナル、貧乏生活、読書、煙草、こだわり、そして、若さ。
その頃の「ララのテーマ」だから・・・ね。
「ララのテーマ Lara's Theme」モーリス・ジャール
「いま生きているということ」を歌った人がいる。
生きる 谷川俊太郎
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと
生きているということ
いま生きてるということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
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クラシック+ジャズは、どうなるの?
クラシックもすごい。
ジャズもすごい。
でも、この別々のジャンルは、どこまで行っても合体できないの?
しばらくして、そう思った時期があった。
そんな時に出会ったのが、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」だった。
もう、この曲は、バキューンって感じだった。
天地がひっくり返った。
日本の田舎で育った私の血のなかに、
「 ディス イズ アメリカ 」が突入してきた。
右手も、左手も、背中も、汗びっしょりになった。
人生の一大事だった。
この曲を聴くと、実に「いい気分」になる。
がんばろうって気になるよ。
このサイトもどうぞ。↓↓↓
http://www.worldfolksong.com/classical/gershwin/index.html
フィンランディア、そして6連符
ジャズに出会うずっと前、高校生になったばかりの時、
交響曲「フィンランディア」に出会っていた。
その頃、重厚という言葉の使い方を覚えた。
まだ見ぬスカンジナビア半島のことを思った。
独立運動のことを想った。
世界地図を見て、ずいぶん遠い所だと思っていたことを思い出す。
難しい曲だった。
6連符ができなかった。
この曲は、血が騒ぐ。
正座して聴くような曲だ。
こういう時代もあったのだ。
フィンランディア賛歌 ↓↓↓
http://www.world-anthem.com/march/finlandia-hymn.html
自慢じゃないが、あの頃の熱き心は、まだ確実に、私の中に残っている。
(ほんの少しだけれどね。)
DESAFINADOの曲名を、何度聴いても、覚えられなかった。
スタンゲッツに出会ったのは、大学の時。
バリケード嵐のなか、「これって、資本主義的?」なんて言われた。
だけど、聴けば聴くほど、胸がしめつけられて、せつなくなった。
いまでも、聴くと息ができなくなるほどせつなくなる。
歳をとっちゃったよ。
雨の日の下宿。
夜明けの港町。
飲んだくれた新宿。
逃げた水道橋。
一人で泣いた公園。
おふくろの作ったいつもの料理。
みんな、思い出してしまう。
女々しいかな。
自彊術(じきょうじゅつ)のこと
昨日、TVのダイエット番組で、自彊術(じきょうじゅつ)を紹介していた。
懐かしかった。
同時に、長続きしなかった自分を大いに反省した。
以前、自彊術の講義を受けた時に書いたブログがあるので、今日は、そのブログを掲載する。
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「二つの美しさ」
リウマチを自彊術(じきょうじゅつ)で克服した人の講義(体験指導)を受けた。
背筋がまっすぐで、優しい顔をしていた。
「正しい型をすることが大事です。」「続けること 続けること。」と言いながら、
四方八方に気を配って自彊術の動作と精神を伝達していた。
三十年近く自彊術に取り組んで自ら難病を克服してきた自信と正確な型からにじみ出る美しさが、教室に充満していた。
その横で講義のアシスタントとして八十一歳になる女性が模範演技をしていた。
その女性は、無口だけれど素人の私が見ても無駄のない合理的な動きをしていた。
この人も朝夕欠かさず、十八年間、自彊術に精進してきたのだという。
この女性も美しかった。
講師の美しさとは違う一途な美しさを放っていた。
実に、講師七十三歳、弟子八十一歳。二人の振舞いは、禅の世界に似ていた。
休憩時間に陳列されていた書物のなかに『易経』があった。
不思議に思って講師にたずねてみると『易経』の一節を開いて、
「天行健君子以自彊不息」という言葉を示しながら、
「天の運行はすこやかである。人間は健康を保つためには、毎日自ら勉めて休んではいけない」という意味の解釈を教えてくれた。
休憩を挟んで後半の講義も前半同様、意味深く引き込まれるような講義であった。
勿論、七十三歳の講師と八十一歳のアシスタントの二人三脚で伝授が進行していった。
二人とも美しかった。
それぞれが違う美しさを放っていた。
要求された動作を人並みにできない私であったが、
会場の誰よりも二人の美しさに圧倒されていた。
七十三歳の講師の美しさは、難病を克服してきた「救いの美しさ」だった。
八十一歳のアシスタントの美しさは、
難病を克服してきた講師の生き方に魅せられ、修練の末に辿り着いた「求道の美しさ」だった。
百年近く続くわが国の体操(自彊術)の体験指導を終えた私は、
身体の軽快な心地よさを感じながら幸せな気持ちをいっぱいにして会場を後にした。
強く生きようと思った。
ジャズ喫茶のマスターが、バディリッチの存在を教えてくれた。
雨の中で、クリフォードブラウンと一緒。 [アート]
29歳のとき、田舎のジャズ喫茶で、クリフォードブラウンのチェロキーを聴いた。
涙が出たのを覚えている。
12歳の時から、ずっと音楽にかかわってきたから、
彼のトランペットのすごさはわかった。
ブリリアントな音色や高度で正確なテクニック、そしてストレートな情感。
アメリカに行きたいと思った。
24歳で他界したクリフォード。
1956年、自動車事故だった。
彼のマネをして、けっこう一生懸命この曲を練習したけど、だめだったな。
ユーチューブで探したらあったので、ここにコピーを置くよ。
(途中、ちょっとブレがあるけどね。)
クリフォードブラウン「チェロキー」